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番外編(前編)「思いどおり」を演奏に反映させるために。すべての行動は心(意識+無意識)の反映〜「プロフェッショナルコース第1期」のレッスン内容紹介~
「どうしてもこんな音を出したいと思えばその通り体が動いてくれて、指も自ずと訓練されていく」
これはこのブログシリーズ「「プロフェッショナルコース第1期」のレッスン内容紹介」第5回の終わりでご紹介した、ショパンの奏法について述べた『弟子から見たショパン』(2020年増補最新版)の著者エーゲルディンデルの言葉(p25)です。(ページ番号は同書のもの。)
もしこれが事実なら、多くの時間を使っての練習を大幅に減らすことができます。しかもその上、思い通りの音色が出せるし、おまけにそれを弾くための特別な指の練習などしなくても、「自ずと訓練されていく」。つまり、自然に動くようになるというのです。
しかし「そんな夢みたいな事が、本当にできたら嬉しいんだけどねぇ」と、思われる方が、圧倒的に多いのではないでしょうか。
ショパン研究の第一人者であり、ショパンの教えを熟知した、いわばショパンの代弁者ともいうべき著者の、「究極の練習法」ともいえる、大変重要でまた貴重なこの言葉なのですが、しかしそのとおり実現するには、いったいどうすればいいのか。残念ながら、本にはその具体的な答えまでは書かれていません。そこでこのプロフェッショナルコース紹介シリーズの番外編では、それを「ごく簡単に実現できる方法」と共に、なぜそうできるのか、その原理についてもご説明していこうと思います。
もっともその答えは、私が普段レッスン中に多用している事ですし、すでに少しお伝えしている事なのですが、改めてここで、それをわかりやすくより詳細にお伝え致します。
なお今回の内容は、演奏法とその練習法にとってとても大事な事なのですが、コースの限られた時間内では少しか触れることができず、まとまった説明と共に受講者にお教えすることができなかった内容なので、この「番外編」としてお伝えすることにしました。
① なぜ一瞬で歌うような演奏ができるように生徒を変えられるのか
以前のブログで取り上げたように、先生から「もっと歌って!」と言われても、普通すぐにはできません。また「もっと思え」と言われても、同じ事でしょう。思うためには、そのイメージが浮かばないかぎり、思うことはできません。それと全く同じ原理で、歌っているイメージが浮かばない限り、歌っている形として表現することなど、できないのが当然ではないでしょうか。
ではそのイメージを、生徒にどうすれば思い浮かべさせることができるのでしょうか。故デームス先生(オーストリアの世界的名ピアニスで2019年没)も私と同じように、「ここはこんな景色が描かれていて・・・」とお話しをして、生徒に具体的な映像が思い描けるようレッスンされてました。するとその直後、生徒の演奏は一瞬にしてその通りに変わるのです。そのように具体的にイメージをさせることで、「ここはこう弾くのですよ」と先生が弾いて聞かせるよりも、はるかに確実に、しかも瞬時に、その生徒の弾き方を変えることができるのです。
このように、「思いどおり」に弾く最も大事なポイントは、そのメロディーに、どんなイメージを描けているかに尽きるでしょう。しかも多くの場合タッチまで、その情景にふさわしい音色で弾けるように、何も教えなくても自然に変化しているのです。何とも不思議なことだと思われませんか?
この番外編では、「一瞬で思い通り弾けるように変われる」という、この何とも不思議な現象について、その仕組みを解明し、皆様にもそれができるようになっていただこうと思います。
しかし改めて振り返ってみて下さい。あなたも、いえ誰でもそうです。ピアノでなく日常生活の中でなら、それが無意識であったとしても、常に「思いどおり」、自然に必要な動きができているのです。
突然そう言われても、「さていったい何の事やら?」と思われるかもしれませんね。
簡単に言えば、人間の動きは、常に何らかのイメージを持った意識が働くからこそ起こるものだという、ごく当たり前の事なのです。例えばボールを投げる時、あそこまで届くように投げようと、距離感と共に力加減のイメージが出来ていればこそ、それを実現する事ができます。
ですからそれは、ピアノを弾く手の動きでも同じことが起きるのです。そのためエーゲルディンデルは、「どうしてもこんな音を出したいと思えばその通り体が動いてくれて、指も自ずと訓練されていく」状態が現れ、その結果、「イメージ通りの音が出せるよう指が動いてくれる」と言っているのではないでしょうか。
幸いにも人の指は、生まれた時からさまざまな動きを身につけて育ってきていますから、複雑で特殊な動きでない限り、多くの場合は比較的短期間で、時には瞬時に必要な動きとなって現れるはずです。そのため、一瞬でそれができるように変われるのでしょう。
② 「全ては手が命じるままに動く」 ショパン
人は誰でも、たとえ動かずにじっと立っているだけであっても、その時の体調などにより、また、心の中で何か思い浮かべていれば、その立ち姿や顔などに、必然的に現れます。それは無意識であっても、自然と表面(動き)に現れるのです。また、「どうしてもこの気持ちを伝えたい!」と一生懸命に話をしていれば、自然と声の大きさ、速さ、勢いなどに変化が表れます。
つまり、あなたが今どれだけ「こうしたい」と、はっきりと意識し深く熱望しているか。それ次第で結果が自然に体の動きとなって反映されます。
その簡単な一例をあげてみましょう。歩いていて目の前に小さな水たまりが現れた場合、あなたはそれをどれくらいの力で跳べば超えられるか、体の動きを必ず瞬間にイメージしているはずです。そして最適の力によって、その目的を達成するのです。
このようにそれを成功させるために必要なものこそ、はっきりしたイメージを思い描いているかどうかだと言えるでしょう。そのイメージさえわかれば、「こうしたい」が自然に実現できるのですか
これが「どうしても~したいと思えばその通り体が動いてくれ」や、
ショパンも言っている「全ては手が命じるままに動く」(p51)状態ではないでしょうか。
(ただしこれは、「柔軟な手」の続きにそう書かれているので、それができるためには、手指腕の動きを自由にさせられるだけの、障害となる緊張などに縛られない、柔軟性が必要になります。)
しかもその上、「指も自ずと訓練されていく」とエーゲルディンデルは言っているのです。そのため、弾きにくい箇所を弾きこなすための機械的な練習をする必要など全くないと言っているので、こんな有難いことはありませんね。
それに代わる練習法は、役者が声のイメージを持ってセリフの練習をするのと同様に、音のイメージをはっきりと持って、音による表現力をただただ磨くという練習だけになるでしょう。
だからショパンは自筆教本の冒頭「ピアノ技法の定義」に続き、
「毎日の練習で『純粋な』技法を磨こうとする間違った習慣」の中で、
「今まで試みられてきたおびただしい数の無益で退屈な訓練は、この楽器の練習には何の役にも立たぬもの。」(同P45)と言っているのでしょう。
これを教本全体の冒頭に置いたということは、それが最も大事なことだからに違いありません。そしてこの項目の最期を、その無駄な訓練に代わるものとして、極めて重要な次のことばでショパンは締めくくっています。
③ 「まっすぐに核心を突くことであり、音楽の技術的側面を容易なものにすることなのだ。」 ショパン
「まっすぐに核心を突く」(同P45)。まずはこのショパンのことばの真意を掘り下げてみましょう。
「核心」とはいったい何なのでしょう。ショパンの言葉ですから、もちろんそれは表現すべき音楽の中身そのものではないでしょうか。そしてその中には、常にさまざまな意識や感情が込められていると考えられます。
そのため、それに対する意識が不十分なままいくらピアノを弾いても、「核心」が間違っていると、間違った音楽表現=演奏にしかならないのです。つまり、作曲者によって楽譜に込められたその部分の“意識”(=核心)が、演奏に反映されなくなってしまうのです。
ですから私は、「どうしても~したいと思」うからこそ、それをめざして練習するのです。より具体的なその方法は、少し後でお話しすることにします。
これに続く「音楽の技術的側面を容易なものにすること」は、その前の核心の部分と対等に置かれているようにも見えますが、そうではなく、「核心を突くこと」に”よって”「技術的側面を容易にする」と読むべきではないでしょうか。なぜなら、それがこの著者が言う、「どうしてもこんな音を出したい・・・指も自ずと訓練されていく」につながっていくからなのです。
だから無駄な指の訓練はやめましょう、と言っているのです。
これらの有難いショパンと著者の言葉を、ピアノ界の中でもっと尊重し重視されるよう、根本的に意識や価値観を変える努力をしなければならないのではないでしょうか。そうすれば、ピアノを学ぶことが、もっともっと楽しくなるでしょう。
④ 「思い通り動いてくれる指」に育てる方法
先ほどのボールを投げる例や水たまりを跳び越す時の例などの動作は、誰でもこの世に生まれて以来、日常的に使われている動作です。しかしピアノを扱うとなると、「特別な事をしている」との思いが強く、同じ動きだとは思えないため、そのまますぐに使えないのが普通です。
私がお伝えしたかったことは、「その通り体が動いてくれて、指も自ずと訓練されていく」の部分。
もう一度その全文をよく見てください。
この下線部にご注目下さい。前半の「その通り体が動いてくれて」までは、すでに説明済みですが、それが後半の「自ずと訓練されていく」に連動していかなければなりません。
つまりその「強い思い」によって、その弾き方が、そのテクニックが、「自ずと」訓練されていく。つまり、新たにそのテクニックが「自然に」身につくということにつながると言っているのです。
そのため、取り立ててテクニックだけの練習をするという必要は、全くないどころか、してはいけないという事にもなります。
「無益で退屈な訓練は何の役にも立たない」(P45)とショパンが言っているとおりなのです。
とはいうものの、歩けるだけの筋力やバランス能力がなければ、人は歩くことさえうまくできません。そのため最低限の、それらの基礎能力を前もって身に付けておく事は、手指には絶対必要なのです。
「指歩きピアノ奏法®」はその基礎能力を、合理的に無理なく、自然に近い運動の形で、全ての指に備えていただくための養成法なのです。
青柳いづみ子氏は、「ピアノを教えることは、歩き方を教えるようなもの」と言われています。
私も30年以上も前から、ピアノを弾く「手を育てる」との視点から、赤子がつかまり立ちして歩けるまでの動作を例に挙げて説明してきました。つまり、まずは腰で上体を支えてつかまり立ち。そして次第に膝、足首へと支える能力の発達が進んでいきます。これは発達心理学でいう「中心から末端へ」の定義どおりの発達順序です。ですから私は、まず指の付け根の(腰に相当する最も重要な)第3関節をしっかりさせる事を最重要視してきました。
(指の第2関節を高く持ち上げて打ち下ろす、ハイフィンガー奏法とはここが違います。)
ショパンが「指を独立させる5指練習」と減七の練習を、弟子のレッスンで毎回必ず最初にさせていたのも、私のこの考えと全く同じく、「指を育てる」ための、基礎能力養成法であり、それが既に身についている人にとっては、各指の動かし方を再確認するための手段だと思われます。
ですから私が、これまでにも書いてきたように、
「指は両手に(左右対称の)たったの5本ずつしかない」
と言っているのは、ここで言う
「手と指に基礎能力をつけてしまえばいいだけだ」、という意味なのです。
逆に言えば、
「手指の基礎能力が育っていないままでは、何をしてもうまくいかない」
ということも、ごくごく当たり前のことだと言えるでしょう。
足腰が不十分なままでは、山登りどころか歩く事さえも思い通りにできません。
手指も同じで、そのような状態の手指では、ピアノを思い通りに弾けるはずがありませんね。
しかし、だからといって強い指にしようと、力を込めて大きなマルカートの音を出して長時間練習すればいいのではありません。それではショパンが言っている「楽に楽に!」の方針に反することになります。これが従来行われてきた、最大の間違った練習法ではないでしょうか。そしてショパンが言う、何の役にも立たない「無益で退屈な訓練」になるでしょう。
(ショパンの「指を独立させる5指練習」(p57)の3段目にある、アクセントをつける(指を強くする)練習では、各指はレガートで弾かなければなりません。それにより、音色が硬くならずに、また音色を聴き分けながら練習することができます。それが4段目の、速度と強弱をそれぞれ最大限まで自在に変化させながら弾ける、完成形の練習へと続いているのです。ですからこの5指練習が、「ショパン式手の育て方」だといえるでしょう。)
この本の著者もショパンを代弁して、
「ピアノ技法は一つの(表現)手段・・この手段は、音楽を通じて自己表現しなければならないという、差し迫った必要から生まれるはずのものである。」(p24)と言っています。(かっこ内は田島による補足)
つまり、表現する必要があってこそ、ピアノの技法は生まれるのです。
ドビュッシーやラヴェルの新しいピアニズムも、何かを表現したいからこそ、そのための新しい技法が生み出されたはずなのです。
現在一般的に行われているレッスンや練習は、この技法(テクニック)という手段を身に付けることが目的となっているのではないでしょうか?
すぐに弾けない音型に出会うことは、よくある事です。それをどうすれば解決できるのか。それを考えながら、ベストな手指の使い方や手の運び方などを見つけるのが、正しい練習法ではないでしょうか。
きっとショパンはそう言っているに違いありません。
ですからショパンは、「演奏のメカニズムに基づく教え方にはきっぱりと背を向け」と、表現するためには無用の、テクニックのためだけの練習を明確に否定しているのです。
ところがミュンヘン国立音楽大学の名教授であったアンスガー・ヤンケ(1941-2005)は、「今日に至ってもなお、『指だけのテクニック』が主張されている。」(『ピアノ・テクニックの科学』ヤンケ著2016)と指摘(p48)しています。ショパンのことばに逆行する古いピアノ教育が、意外にもドイツにおいてさえ、少なくなったとはいえ未だ根強く残っているようです。19世紀後半にハイフィンガー奏法全盛時代だったドイツならではの後遺症でしょうか。
以上の内容は、さらに深めてお伝えしたい大変重要なものなので、この続きは次回(中編)に。そこでは次の内容を予定しています。
⑤ 「どうしてもこんな音を出したい」と思うために絶対必要なこと
⑥ その魅力を指導者はどう生徒に伝えるのか
⑦ 朗読と読譜の関係
最終回の後編では、
⑧ ピアニストが歌や朗読の練習をする「究極の演奏効果」!
そしてとっておきの「奥義」として、音楽表現上にも手の動きにも極めて重要な、知る人ぞ知る、
⑨演奏の極意「連鎖」について、お伝えする予定です。
このような指導法や演奏法にご興味のあるピアノ指導者・ピアニストの方は、まずは無料体験会へ。
もし、行き詰まりを感じていたり、このままで良いのかと思っておられるようでしたら、この体験会できっとその解決の糸口を見いだせることでしょう。
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ピアノレッスンクリニック芦屋
【住所】 〒659-0091 兵庫県芦屋市東山町28-19
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【アクセス】 大阪より、JR・阪急・阪神各線で8分~21分、 神戸三宮より、8分~15分 下車後、バスで約5分。東山町バス停下車すぐ
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「どうしてもこんな音を出したいと思えばその通り体が動いてくれて、指も自ずと訓練されていく」
これはこのブログシリーズ「「プロフェッショナルコース第1期」のレッスン内容紹介」第5回の終わりでご紹介した、ショパンの奏法について述べた『弟子から見たショパン』(2020年増補最新版)の著者エーゲルディンデルの言葉(p25)です。(ページ番号は同書のもの。)
もしこれが事実なら、多くの時間を使っての練習を大幅に減らすことができます。しかもその上、思い通りの音色が出せるし、おまけにそれを弾くための特別な指の練習などしなくても、「自ずと訓練されていく」。つまり、自然に動くようになるというのです。
しかし「そんな夢みたいな事が、本当にできたら嬉しいんだけどねぇ」と、思われる方が、圧倒的に多いのではないでしょうか。
ショパン研究の第一人者であり、ショパンの教えを熟知した、いわばショパンの代弁者ともいうべき著者の、「究極の練習法」ともいえる、大変重要でまた貴重なこの言葉なのですが、しかしそのとおり実現するには、いったいどうすればいいのか。残念ながら、本にはその具体的な答えまでは書かれていません。そこでこのプロフェッショナルコース紹介シリーズの番外編では、それを「ごく簡単に実現できる方法」と共に、なぜそうできるのか、その原理についてもご説明していこうと思います。
もっともその答えは、私が普段レッスン中に多用している事ですし、すでに少しお伝えしている事なのですが、改めてここで、それをわかりやすくより詳細にお伝え致します。
なお今回の内容は、演奏法とその練習法にとってとても大事な事なのですが、コースの限られた時間内では少しか触れることができず、まとまった説明と共に受講者にお教えすることができなかった内容なので、この「番外編」としてお伝えすることにしました。
① なぜ一瞬で歌うような演奏ができるように生徒を変えられるのか
以前のブログで取り上げたように、先生から「もっと歌って!」と言われても、普通すぐにはできません。また「もっと思え」と言われても、同じ事でしょう。思うためには、そのイメージが浮かばないかぎり、思うことはできません。それと全く同じ原理で、歌っているイメージが浮かばない限り、歌っている形として表現することなど、できないのが当然ではないでしょうか。
ではそのイメージを、生徒にどうすれば思い浮かべさせることができるのでしょうか。故デームス先生(オーストリアの世界的名ピアニスで2019年没)も私と同じように、「ここはこんな景色が描かれていて・・・」とお話しをして、生徒に具体的な映像が思い描けるようレッスンされてました。するとその直後、生徒の演奏は一瞬にしてその通りに変わるのです。そのように具体的にイメージをさせることで、「ここはこう弾くのですよ」と先生が弾いて聞かせるよりも、はるかに確実に、しかも瞬時に、その生徒の弾き方を変えることができるのです。
このように、「思いどおり」に弾く最も大事なポイントは、そのメロディーに、どんなイメージを描けているかに尽きるでしょう。しかも多くの場合タッチまで、その情景にふさわしい音色で弾けるように、何も教えなくても自然に変化しているのです。何とも不思議なことだと思われませんか?
この番外編では、「一瞬で思い通り弾けるように変われる」という、この何とも不思議な現象について、その仕組みを解明し、皆様にもそれができるようになっていただこうと思います。
しかし改めて振り返ってみて下さい。あなたも、いえ誰でもそうです。ピアノでなく日常生活の中でなら、それが無意識であったとしても、常に「思いどおり」、自然に必要な動きができているのです。
突然そう言われても、「さていったい何の事やら?」と思われるかもしれませんね。
簡単に言えば、人間の動きは、常に何らかのイメージを持った意識が働くからこそ起こるものだという、ごく当たり前の事なのです。例えばボールを投げる時、あそこまで届くように投げようと、距離感と共に力加減のイメージが出来ていればこそ、それを実現する事ができます。
ですからそれは、ピアノを弾く手の動きでも同じことが起きるのです。そのためエーゲルディンデルは、「どうしてもこんな音を出したいと思えばその通り体が動いてくれて、指も自ずと訓練されていく」状態が現れ、その結果、「イメージ通りの音が出せるよう指が動いてくれる」と言っているのではないでしょうか。
幸いにも人の指は、生まれた時からさまざまな動きを身につけて育ってきていますから、複雑で特殊な動きでない限り、多くの場合は比較的短期間で、時には瞬時に必要な動きとなって現れるはずです。そのため、一瞬でそれができるように変われるのでしょう。
② 「全ては手が命じるままに動く」 ショパン
人は誰でも、たとえ動かずにじっと立っているだけであっても、その時の体調などにより、また、心の中で何か思い浮かべていれば、その立ち姿や顔などに、必然的に現れます。それは無意識であっても、自然と表面(動き)に現れるのです。また、「どうしてもこの気持ちを伝えたい!」と一生懸命に話をしていれば、自然と声の大きさ、速さ、勢いなどに変化が表れます。
つまり、あなたが今どれだけ「こうしたい」と、はっきりと意識し深く熱望しているか。それ次第で結果が自然に体の動きとなって反映されます。
その簡単な一例をあげてみましょう。歩いていて目の前に小さな水たまりが現れた場合、あなたはそれをどれくらいの力で跳べば超えられるか、体の動きを必ず瞬間にイメージしているはずです。そして最適の力によって、その目的を達成するのです。
このようにそれを成功させるために必要なものこそ、はっきりしたイメージを思い描いているかどうかだと言えるでしょう。そのイメージさえわかれば、「こうしたい」が自然に実現できるのですか
これが「どうしても~したいと思えばその通り体が動いてくれ」や、
ショパンも言っている「全ては手が命じるままに動く」(p51)状態ではないでしょうか。
(ただしこれは、「柔軟な手」の続きにそう書かれているので、それができるためには、手指腕の動きを自由にさせられるだけの、障害となる緊張などに縛られない、柔軟性が必要になります。)
しかもその上、「指も自ずと訓練されていく」とエーゲルディンデルは言っているのです。そのため、弾きにくい箇所を弾きこなすための機械的な練習をする必要など全くないと言っているので、こんな有難いことはありませんね。
それに代わる練習法は、役者が声のイメージを持ってセリフの練習をするのと同様に、音のイメージをはっきりと持って、音による表現力をただただ磨くという練習だけになるでしょう。
だからショパンは自筆教本の冒頭「ピアノ技法の定義」に続き、
「毎日の練習で『純粋な』技法を磨こうとする間違った習慣」の中で、
「今まで試みられてきたおびただしい数の無益で退屈な訓練は、この楽器の練習には何の役にも立たぬもの。」(同P45)と言っているのでしょう。
これを教本全体の冒頭に置いたということは、それが最も大事なことだからに違いありません。そしてこの項目の最期を、その無駄な訓練に代わるものとして、極めて重要な次のことばでショパンは締めくくっています。
③ 「まっすぐに核心を突くことであり、音楽の技術的側面を容易なものにすることなのだ。」 ショパン
「まっすぐに核心を突く」(同P45)。まずはこのショパンのことばの真意を掘り下げてみましょう。
「核心」とはいったい何なのでしょう。ショパンの言葉ですから、もちろんそれは表現すべき音楽の中身そのものではないでしょうか。そしてその中には、常にさまざまな意識や感情が込められていると考えられます。
そのため、それに対する意識が不十分なままいくらピアノを弾いても、「核心」が間違っていると、間違った音楽表現=演奏にしかならないのです。つまり、作曲者によって楽譜に込められたその部分の“意識”(=核心)が、演奏に反映されなくなってしまうのです。
ですから私は、「どうしても~したいと思」うからこそ、それをめざして練習するのです。より具体的なその方法は、少し後でお話しすることにします。
これに続く「音楽の技術的側面を容易なものにすること」は、その前の核心の部分と対等に置かれているようにも見えますが、そうではなく、「核心を突くこと」に”よって”「技術的側面を容易にする」と読むべきではないでしょうか。なぜなら、それがこの著者が言う、「どうしてもこんな音を出したい・・・指も自ずと訓練されていく」につながっていくからなのです。
だから無駄な指の訓練はやめましょう、と言っているのです。
これらの有難いショパンと著者の言葉を、ピアノ界の中でもっと尊重し重視されるよう、根本的に意識や価値観を変える努力をしなければならないのではないでしょうか。そうすれば、ピアノを学ぶことが、もっともっと楽しくなるでしょう。
④ 「思い通り動いてくれる指」に育てる方法
先ほどのボールを投げる例や水たまりを跳び越す時の例などの動作は、誰でもこの世に生まれて以来、日常的に使われている動作です。しかしピアノを扱うとなると、「特別な事をしている」との思いが強く、同じ動きだとは思えないため、そのまますぐに使えないのが普通です。
私がお伝えしたかったことは、「その通り体が動いてくれて、指も自ずと訓練されていく」の部分。
もう一度その全文をよく見てください。
「どうしてもこんな音を出したいと思えばその通り体が動いてくれて、指も自ずと訓練されていく」
この下線部にご注目下さい。前半の「その通り体が動いてくれて」までは、すでに説明済みですが、それが後半の「自ずと訓練されていく」に連動していかなければなりません。
つまりその「強い思い」によって、その弾き方が、そのテクニックが、「自ずと」訓練されていく。つまり、新たにそのテクニックが「自然に」身につくということにつながると言っているのです。
そのため、取り立ててテクニックだけの練習をするという必要は、全くないどころか、してはいけないという事にもなります。
「無益で退屈な訓練は何の役にも立たない」(P45)とショパンが言っているとおりなのです。
とはいうものの、歩けるだけの筋力やバランス能力がなければ、人は歩くことさえうまくできません。そのため最低限の、それらの基礎能力を前もって身に付けておく事は、手指には絶対必要なのです。
「指歩きピアノ奏法®」はその基礎能力を、合理的に無理なく、自然に近い運動の形で、全ての指に備えていただくための養成法なのです。
青柳いづみ子氏は、「ピアノを教えることは、歩き方を教えるようなもの」と言われています。
私も30年以上も前から、ピアノを弾く「手を育てる」との視点から、赤子がつかまり立ちして歩けるまでの動作を例に挙げて説明してきました。つまり、まずは腰で上体を支えてつかまり立ち。そして次第に膝、足首へと支える能力の発達が進んでいきます。これは発達心理学でいう「中心から末端へ」の定義どおりの発達順序です。ですから私は、まず指の付け根の(腰に相当する最も重要な)第3関節をしっかりさせる事を最重要視してきました。
(指の第2関節を高く持ち上げて打ち下ろす、ハイフィンガー奏法とはここが違います。)
ショパンが「指を独立させる5指練習」と減七の練習を、弟子のレッスンで毎回必ず最初にさせていたのも、私のこの考えと全く同じく、「指を育てる」ための、基礎能力養成法であり、それが既に身についている人にとっては、各指の動かし方を再確認するための手段だと思われます。
ですから私が、これまでにも書いてきたように、
「指は両手に(左右対称の)たったの5本ずつしかない」
と言っているのは、ここで言う
「手と指に基礎能力をつけてしまえばいいだけだ」、という意味なのです。
逆に言えば、
「手指の基礎能力が育っていないままでは、何をしてもうまくいかない」
ということも、ごくごく当たり前のことだと言えるでしょう。
足腰が不十分なままでは、山登りどころか歩く事さえも思い通りにできません。
手指も同じで、そのような状態の手指では、ピアノを思い通りに弾けるはずがありませんね。
しかし、だからといって強い指にしようと、力を込めて大きなマルカートの音を出して長時間練習すればいいのではありません。それではショパンが言っている「楽に楽に!」の方針に反することになります。これが従来行われてきた、最大の間違った練習法ではないでしょうか。そしてショパンが言う、何の役にも立たない「無益で退屈な訓練」になるでしょう。
(ショパンの「指を独立させる5指練習」(p57)の3段目にある、アクセントをつける(指を強くする)練習では、各指はレガートで弾かなければなりません。それにより、音色が硬くならずに、また音色を聴き分けながら練習することができます。それが4段目の、速度と強弱をそれぞれ最大限まで自在に変化させながら弾ける、完成形の練習へと続いているのです。ですからこの5指練習が、「ショパン式手の育て方」だといえるでしょう。)
この本の著者もショパンを代弁して、
「ピアノ技法は一つの(表現)手段・・この手段は、音楽を通じて自己表現しなければならないという、差し迫った必要から生まれるはずのものである。」(p24)と言っています。(かっこ内は田島による補足)
つまり、表現する必要があってこそ、ピアノの技法は生まれるのです。
ドビュッシーやラヴェルの新しいピアニズムも、何かを表現したいからこそ、そのための新しい技法が生み出されたはずなのです。
現在一般的に行われているレッスンや練習は、この技法(テクニック)という手段を身に付けることが目的となっているのではないでしょうか?
すぐに弾けない音型に出会うことは、よくある事です。それをどうすれば解決できるのか。それを考えながら、ベストな手指の使い方や手の運び方などを見つけるのが、正しい練習法ではないでしょうか。
きっとショパンはそう言っているに違いありません。
ですからショパンは、「演奏のメカニズムに基づく教え方にはきっぱりと背を向け」と、表現するためには無用の、テクニックのためだけの練習を明確に否定しているのです。
ところがミュンヘン国立音楽大学の名教授であったアンスガー・ヤンケ(1941-2005)は、「今日に至ってもなお、『指だけのテクニック』が主張されている。」(『ピアノ・テクニックの科学』ヤンケ著2016)と指摘(p48)しています。ショパンのことばに逆行する古いピアノ教育が、意外にもドイツにおいてさえ、少なくなったとはいえ未だ根強く残っているようです。19世紀後半にハイフィンガー奏法全盛時代だったドイツならではの後遺症でしょうか。
以上の内容は、さらに深めてお伝えしたい大変重要なものなので、この続きは次回(中編)に。そこでは次の内容を予定しています。
⑤ 「どうしてもこんな音を出したい」と思うために絶対必要なこと
⑥ その魅力を指導者はどう生徒に伝えるのか
⑦ 朗読と読譜の関係
最終回の後編では、
⑧ ピアニストが歌や朗読の練習をする「究極の演奏効果」!
そしてとっておきの「奥義」として、音楽表現上にも手の動きにも極めて重要な、知る人ぞ知る、
⑨演奏の極意「連鎖」について、お伝えする予定です。
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